何よりも大切な教育が奪われている今

松村茂郎(まつむら しげお)

福島県立福島高等学校教諭(数学)

第一学群自然学類数学専攻 1983年度卒業

 

子供たちが学校に行くことさえも許されないという、ほんの数ヶ月前までは誰一人として想像すらしなかった現実の中に身を置いている今、子供たちにとって何よりも大切な「教育を受ける機会」が奪われてしまっていることの重大さを日本中の人々が共有しています。そして、「子供たちが登校してくるのを待っている」という前提の上に成立していた学校教育は、このような事態の前では砂上の楼閣のように脆いということが明らかになりました。しかしその一方で、家庭以外に身の安全が確保できる空間としての学校の役割も浮き彫りになってきました。こうして「学校教育」および「学校という空間」の役割について改めて考えざるを得ない状況に置かれてみると、学校は私たちの従来の認識をはるかに超えて社会にとって重要な存在であることがわかります。

私は福島県立福島高等学校に勤務する今年度で定年を迎える数学の教師です。本校は3月初旬から数日を除いて休校状態が続いていますが、この原稿を書いている5月初旬に非常事態宣言が5月末まで延長されることが決定したことで、休校もまだまだ続くものと思われます。私は現在3年生の担任をしています。私はこの学年を受け持った2年前からそれまでの授業スタイルを捨て、担当学年の数学教師たちを巻き込んで、数学の授業を毎時間グループ学習中心で学びあうという形態で行ってきました。周囲からは無謀なチャレンジと見られていましたが、幸いにも大きな教育的成果を上げることができました。教師が独占してきた授業の時間を生徒に返すことで、教師がこれまで見たことがない光景と成果が得られることが明らかになり、今年はその仕上げの1年となるはずでした。しかし、人との接触を極力減らすことが最も重要であるという事態になった今、私はこの実践を続けることを断念いたしました。

このような状況の中で、現在私はこの2年間とはまったく異なる方針のもとで教育活動を行っています。それは、生徒に独学を奨励するという方針です。3月初旬に休校が決まると同時に方針変換やむなしと判断した私は、生徒たちに次のように指示しました。まず、教科書を丁寧に解説する授業動画を作成して独学を支援するので、数学を独力で学んでいってほしいということ。次に、解答を見ても理解できない問題があるときにはリクエストを受けて解説動画を作成するので遠慮なくリクエストをしてほしいということです。「たった一人のためにも動画を作る」と生徒には伝えました。この指示に従って生徒たちは現在も自宅で独学を続けています。動画はユーチューブを使って限定公開でアップします。また、3年生専用の学習支援サイトをつくり、そこから生徒たちが簡単に動画に入れるようにしてあります。サイトの中にはリクエストが書き込める場所もつくってあります。動画は15分以内を心掛けて作っています。現在まで私が作成した動画の本数は160本を超えていますが、このうち生徒からのリクエストで作った動画が約100本です。中には「フェルマーの最終定理の証明をお願いします」などというものもありました。冗談かなと思いながらも対応に困りしばらくそのままにしておきましたが、幸いにも京大の望月先生がABC予想を証明したというニュースが流れたので、ABC予想が証明されたという前提に立てばフェルマーの最終定理が証明されることを解説した「ABC予想とフェルマーの最終定理」という動画を作ることができ、何とかリクエストに応えることができました。現在も毎日のようにリクエストは届きます。リクエストに迅速に応えるために、私は毎日4時起きで対応をしています。3月当初は私の動画だけでしたが、しだいに他教科の先生方も動画を作成するようになり、現在学習支援サイトにはほぼ全科目の動画がアップされていて、総数で300本を超えています。それぞれの先生方がアイデアを駆使して楽しみながら作成をしており、教師たちもお互いの動画を見て楽しんでいます。また、動画を見る環境が整っていない生徒のために学校の情報室の使用を教師の管理のもとで認めていますので、3学年の生徒全員が動画を見ることができる環境にあります。さらに、生徒たちには3年担任団全員の公用のメールアドレスも教えてあるので、生徒たちは自由に質問や相談をすることができています。自分の答案を写真にとり、メールに添付して添削を依頼する生徒も少なからずいるので、教師たちはその対応に多くの時間を割いています。

これまでも、東日本大震災や阪神淡路大震災など子供たちが教育を受ける機会を失いそうになった危機的状況が幾度か日本にはありました。しかし、そんなときこそ何よりも教育が重要であるということをお伝えするために、阪神淡路大震災のときに自宅が被災し大学進学をあきらめようとした生徒を励ました担任の言葉を送ります。「形があるものはすべて壊れてしまった。でも、人が学んだり伝えたりしたものは壊れない。だから、今こそ学ばなければならないよ。」

数学域広報委員会から:松村茂郎氏は2020年2月、第一回数理教育藤田宏賞を受賞されました。この賞は、「現代文明文化の基盤となる数理的な知性の涵養の重要性を幅広い視野で理解して教育実践する数学教育者を支援する」TECUM(長岡亮介代表)から「よい数学教師」に贈られる賞です。「よい教師」の定義を長岡代表が与えますところの定義から一部抜粋いたします。「それぞれの学習者に、数学を通じてしか触れることのできない深い《思索と理解、納得と感動の体験》を誘導するために、自分の教育の実践の場ですぐに報われることを目指すことなく、また、厳しい自己犠牲そのものであるかも知れない教育的活動や学問的活動の実績を安易に吹聴することなく、一歩一歩地道な努力を継続する人」