伝記・数学史のすすめ--総合智への1つのアプローチ

本学は,外国語・体育・国語・芸術といった「総合科目」を教養教育として位置づけ,その重要性の拠り所を「総合智教育」としています.この「総合智教育」とは、「高度な専門的知識とそれを活かす多様で学際的な知識の習得で得られる総合的な知的基盤に加え,倫理観,人間性,論理性,国際性,コミュニケーション力,豊かな心身基盤,マネジメント・企画調整力などの汎用智がバランスよく培われた高度な知的人材を育て上げるための教育を施すための教育体系」であると定義しています(学群スタンダード 教養教育).「定義がピンとこない場合,まず具体例を考えよ」と数学では申します.幸い,数学において総合智の具現者の例は豊富で,彼らについてその業績も含め,伝記により,また数学史において学ぶことができます.

そこで,数学者の伝記や数学史書を何冊かご紹介いたします.ここに挙げるものに限らず,この種の書物を読むと,心豊かになり,数学研究への勇気も湧いてきます.それは,数学が真に人間的な営みであることを実感できるからでしょう.

[1] 廣島文生「フォン・ノイマン(1) 知の巨人と数理の黎明」双書⑲・大数学者の数学,現代数学社 2021.

数学,物理学,計算機科学,それらに留まらないフォン・ノイマンの偉業の数々を,「学際的」と評するだけでは到底足りません.本書は,フォン・ノイマンの生涯と偉業を,時代背景と見事に融合させて描く快作.例えば,1900年代初頭の量子論と測度論の発見を「奇跡的シンクロ」と評し,科学史の楽しさを教えてくれます.

[2] 大沢健夫「岡潔 多変数関数論の建設」双書⑫・大数学者の数学,現代数学社 2014.

数学類2年次に「関数論」,4年次に「複素解析」という授業があって,これらは複素1変数の複素数値関数に関し,その調和に満ちた理論を学ぶ機会となっています.この「1変数」を「多変数」に替えて生じる諸問題を.1930年代から50年代ひとり解決し,多変数関数論の基礎を築いたのが岡潔.本書はその光る個性と独創的数学を,親切かつ精緻に書き上げた名作.この分野の第一人者による解説は,大学初年級向けの導入から始まり,岡理論を現代に活かせる形で伝え,その後の発展にまで及んでいます.

[3] 上野健爾「小平邦彦が築いた数学」岩波書店,2015.

「複素多様体の変形理論」を中核とする小平邦彦の業績の全般に渡り,それらがどのように生み出されていったか,アイデアの源泉までをも解き明かす,極めて貴重な作品.数学類3年次向け「多様体入門」を修めれば読み進めます.小平数学の先駆性,また現代数学に与えた影響の大きさを示すため,深谷賢治による珠玉の解説文から次を引用します.「線型偏微分方程式とコホモロジー(調和積分論)から非線型偏微分方程式とモジュライ理論(変形理論)へと進む,という50年代に小平が進んだ道は,アティヤー(Atiyah)--ジンガ― (Singer)の指数定理(線形楕円形方程式についての定理)からヤン--ミルズ方程式のモジュライの問題へと進んだ,アティヤーやドナルドソンたちオックスフォード学派の70・80年代の歩みを20年前に先取りしている」(深谷賢治「複素多様体論あるいは小平数学における超越的方法」日本評論社 数学のたのしみ「小平数学の調和と美」2000.08 所収).

[4] 石井省吾・渡辺弘 訳「クライン:19世紀の数学」共立出版 1995.

19世紀,ヤコビ,アーベル,ワイエルシュトラス,リーマンらが築いた楕円関数論を現代的に講じる,梅村浩の名著「楕円関数論」(東大出版会;増補新装版2020)の評(360頁)をそのまま引用します.「19世紀の数学の発展を,Gauss の伝統を引き継ぐゲッチンゲンから見た,Kleinの著作 [4] は,19世紀の数学の成果の豊かさが,人類の文化活動の歴史において特筆すべきものであることを証言している.」

[5]  ジャン-ポール ドゥラエ(畑政義 訳)「π---魅惑の数」朝倉書店 2001.

これは前4冊とは趣を異にし,1つのテーマ---円周率 π ---に焦点を当てています.誰もが楽しめ,マニアをもうならせる力作.π の発見から,比較的最近の発見に至るまで,4000年を駆け抜けるウィットにとんだ記述が,読者の興味を引き続けます.原著はフランス語ですが,この日本語訳も優れており,訳者の情熱が伝わってきます.

さて,数学類を含む理工学群は,初年級向けに,前出の「総合科目」に準ずる「共通科目」を開設しております.その中に「数学リテラシー」という,大学数学のいわば「読み・書き・そろばん」を伝授する科目があります.受講者が広く自由に科学を学ぶことを期待し,その基盤となるべく用意された科目です.

大学院に目を転じていただきますと,カリキュラム・マップにおいて,総合智の要素として5つの「汎用コンピテンス」が,5つの「専門コンピテンス」とともに挙げられ,各授業科目がそれらのうちのどの能力の養成を目的としているかが明らかにされています.